今の大学を辞めないでよかった

タイトルの通り、今実感した。

 

自分は今学部4年だが入学してからずっと、やっていけるかな。という思いがあった。

高校時代からの自分の感覚への不信感の継続、あの時うまくいったのはまぐれだ、と思っていた。そんな中周りの切り口の鮮やかさや、制作の楽しさからくる輝きに、眩しくて逆に消えてしまいたくなる気持ちを本当に何度味わったかわからない。

本当に大学からフェードアウトしたかった。

 

そして整体や健康など直接的に技術の得られる学校に通って全く違う人生をやり直したかった。でも二浪もして親に多額の"投資"をさせてしまった自分にはもうこの道に身を捧ぐしかないんだ、妹弟友人にもカッコつかない、本当にやりたいことはおそらく自分の感性を使って生きていきたいけど私にはそんな資格や才能やセンスはない、ここにいるとそんなことばかり実感してしまうしせっかく入ったけど、諦めよう、辞めたい。でも、親にも申し訳ないし、今更辞められない。さっさと高三の段階でやめておけばよかったな、、、そしたら今頃、今の自分よりはきっと生き生きと輝いているのだろうな、、、あー人生詰んでるな

 

、、、と暗い暗い暗い思いを背負い通っていたのだった。

 

 

しかし自分をなんとか動かすために記憶を探ると、初対面の先輩にあなたセンスあるから、とかあなたはグラフィックのセンスある、と教授に言われたりしたこともあった。

 

今思うと単にインプットが足りていなかった。この大学は何も教えてくれないと悲観していたが自分でどんどん吸い込んで行かなきゃダメだということに早く気づくべきだった。

 

視覚は画集や写真集や先人が創造してきたいいものや周りの人がいいと反応するものを見ることで。

頭はいろんな人とコミニュケーションしたり、学部専門の領域に留まらず体系的な知識や経験をすることで。この学校の実践的な即戦力になる技術の授業が付属的な立ち位置な理由も分かった気がする。

糧という言葉は使いたくないが、それらの取り込んだ知識が蓄積されセンスの精度が上がる。水野学の「センスは知識である」という本で知ってはいたが体験を伴ってより実感した。

 

目と頭を磨くための根本的な基盤となるのは、ものをよく見ることだと思う。

 

その基礎としてデッサンをさせられてきた。してきたのだけどさせられてきた...。まず目の前のものをよく見る。色は、形は、凹凸は、質は、光は、明暗は、手前奥は、雰囲気は、と様々な視点からものを見ることがよく見るということだ。

空間、講師、など質のよい環境でデッサンを学んだことは私にとって財産だと言える。

 

いいものを生み出している人はいいものを見ているし、よくものを見ている。

よく見るからいいものがわかる。

「天才だったらこの大学を受験しないよ」と予備校の頃講師が言っていた。そんなことはまあどうでもいいが、私においては目と頭を自ら絶えず磨いてやらねばいけない。でないと腐る。白洲正子が言うように人間は生きれば生きるほど美しくなっていいと私も思う。そのためにも勉学、制作に励みたい。そう思いつつ動けない時がよくあるので困るが、常によく見る人でありたい。